父のがんは、腹膜播種している進行胃がんのため外科的な切除は適応外であり、可能な治療は基本的に薬物療法(抗がん剤治療)となる。
腹膜播種を伴う胃癌がなぜ手術できないのかについてはこちら。
父の抗がん剤治療にSOX療法を選択した経緯とその治療原理について簡単にまとめておきたい。
目次
ステージ4の場合の抗がん剤治療
抗がん剤は人体にとって毒であり、まさに毒を持って毒(がん)を制す、を地で行く薬と言える。
そのため、抗がん剤治療を実施するためにはその副作用に耐えられるだけの体力が必要であり、体力次第では抗がん剤で命を落とすことにもなり兼ねない。
ステージ4胃がんの場合、抗がん剤だけで非医療者の考える”治った”という状態になることはほとんどなく、少々語弊のある書き方をすれば、現状の化学療法は治すための治療ではなく、延命するための治療という現実がある。(早期がんの場合はまた話が別であるが)
従って、抗がん剤治療をした方が良いのか否かは患者ごとに慎重に判断しなければならない。
抗がん剤治療が出来るか否かを判断する上では、パフォーマンスステータス(performance status; PS)という患者の全身状態を表す指標が重要となる。
端的に言えば、患者一人で日中どの程度活動できるのかを指標としており、抗がん剤が投与可能と判断されるのはPS2までのことが多い。
(患者の活動性 高 > 低 = PS0 > PS4)
PS2は日中の50%以上をベッド外で過ごせる程度の状態を指すが、入院時の父は極めて消耗しており50%以上をベッドで過ごすPS3以上の状態だった。
しかし、本人の強い希望とまだ60代になったばかりという年齢を加味して、トライすることになった。
抗がん剤治療の選択
初回治療方針を決めるまで
父が大学病院に入院してから抗がん剤治療が始まったのは1週間経ってからだった。
治療がすぐに始まらなかったのは、入院した時点では病理検査の結果が出ていなかったためだ。
現在、胃がん治療では、がん細胞がHER2というタンパク質を出しているタイプかどうかで治療法が変わる。
HER2タンパク質とは
HER2は、上皮細胞成長因子(EGF)受容体様タンパク質である。
EGFとは
EGFは最近、化粧品などでもよく目にすることが増えた気がするが、その名の通り上皮細胞の増殖や成長を促すタンパク質だ。
癌細胞は基本的に上皮由来であり、EGFの異常な活性化と発がんの関係は様々な癌種でよく知られている。
受容体とは
受容体とは、細胞の外からやってくる特定の刺激を受け取り、細胞内の情報へと変換して伝えるタンパク質のことを言う。
EGF受容体の場合、EGFが来たことを感知して細胞増殖を促すシグナルに変換する。
HER2の働き
EGF受容体とよく似たタンパク質であり、細胞の増殖を促進する因子を受け取り、細胞の増殖や生存を調節するタンパク質である。
癌細胞ではHER2が増えることにより、細胞増殖が促進されていると考えられている。
HER2と治療
HER2が出ていた場合、それに結合する分子標的薬であるハーセプチンを使うことができる。
分子標的薬は、その名の通り決まった標的にのみ結合するため、従来の抗がん剤に比べて副作用が少なく、体に優しいという利点がある。
しかし、標的となる分子を持っているがん細胞にしか効果はない。
胃がん患者のうち、10-20%程度しかHER2陽性ではないことが知られている。
父の場合もHER2陰性であり、ハーセプチンは使えなかった。
消化器外科の後輩に聞いたところ、胃がんの場合、噴門や幽門といった胃の入口や出口付近で出来たがんはHER2を発現していることが比較的多いそうだ。
抗がん剤の選択肢
ハーセプチンが使えない父の治療として、SOX療法、CapeOX療法、mFOLFOX療法が提案された。
いずれもプラチナ製剤とフッ化ピリミジン系薬剤を併用した治療であり、標準的な初回治療法(ファーストライン)だ。
事実上、選択の余地はなかったのだが、今回父の治療にはSOX療法を選んだ。
SOX療法とは
正式には、TS-1 + オキサリプラチン併用療法。
2週間の投薬と1週間の休薬の計3週間を1クールとして行う。
TS-1とは
TS-1は、テガフール、ギメラシル、オテラシルカリウムの3剤が配合されている薬であり、上述したフッ化ピリミジン系薬剤である。
この薬は、細胞の遺伝子(DNAとRNA)の原料(ウラシル)と非常に良く似た形をしており、この薬が癌細胞に取り込まれることで、DNAに必須となる他の成分(チミン)の合成を抑制したり、本来の成分と間違えてRNAに入り込むことで遺伝子からタンパク質が合成される過程を阻害したりするため、細胞死を促す。
同じ作用を持つ薬は古くから存在するが、TS-1のミソは、がん細胞を殺す成分に加えて、それを増強する成分と消化管への副作用を抑える成分も配合されている点。
さらに点滴ではなく飲み薬であるという点も良いところで、消化器癌を中心に非常によく使われている優れた薬だ。
TS-1には口の中ですぐに溶けるOD錠(口腔内崩壊錠)があり、飲食物が殆ど喉を通らなかった父にはこれが決め手だった。
ちなみに、開発当初はS-1という名称だったため、今でも医療者間ではS-1と呼ばれることが多い。
オキサリプラチンとは
もう一方の薬であるオキサリプラチンは白金(プラチナ)を含んでいる、いわゆるプラチナ製剤と呼ばれる薬剤である。
この薬は、遺伝子を形作っている特定の成分(グアニンやアデニン)に結合することで遺伝子の合成を妨害し、細胞死を誘導する。
最初のプラチナ製剤であるシスプラチンに比べて腎臓に対する毒性が低く、大量の輸液が必要ないという利点があるため、今回の父のように腹水が溜まっている場合でも使いやすい。(輸液の増加 = 腹水の増加となるため)
ただ、この薬には、使ったほぼ100%の人にしびれなどの末梢神経障害が生じるという特有の副作用もあり、メリットばかりではない。
ちなみに、オキサリプラチン投与後におきる感覚異常は冷えによって誘発されやすいので、冷やさないことが大事になる。
なぜ癌細胞に効くのか
フッ化ピリミジン系薬剤とプラチナ製剤は上述したようにどちらも遺伝子の合成や読み取りを停止させる薬であり、併用すると効果が高まる。
遺伝子は正常な細胞にも存在しているため、これらの薬は癌細胞のみならず正常細胞にも作用する。
これが抗がん剤の副作用の要因の1つになるわけだが、癌細胞の方がより効きやすいため、薬として成立している。
ではなぜ癌細胞にはこのような薬が効きやすいのだろうか。
その理由は、細胞が増殖する仕組みによる。
細胞は、必ず自身の遺伝子のコピーを作った後に分裂して増殖する。
これは細胞共通の機構であり、癌で有ろうと無かろう必ずコピーを作る。
ただ、癌細胞の場合は、コピーを作って分裂・増殖する速度が正常細胞に比べて圧倒的に早いため、薬によるダメージを受けやすい。
簡単に言ってしまえば、癌細胞は停止ボタンの壊れたカラープリンターをイメージしてもらうと良いかもしれない。
紙やインクが続く限り、自分のコピーを印刷し続ける。
しかもその印刷速度が猛烈に早く、正常なプリンター(細胞)の比ではない。
SOX療法は、プリンターのインク詰まりを誘発するインクもどき(TS-1)と紙を毛羽立たせて紙詰まりを誘発する特殊なコーティング剤(オキサリプラチン)を同時に供給することでプリンターを止めようとする治療だと言える。
しかし、基本的に全身にある全てのプリンター(細胞)に作用するので、毛髪や血球など、正常でも比較的印刷速度の速いプリンター(細胞)は止まってしまう影響(副作用)が生じやすい点が問題となる。原理上、仕方のないことではあるが。
上記の経緯を経て、父に対するSOX療法が2017年11月から始まった。